HOME
> 民話でだどる菅浦の風景=隠れ里
=
びわ湖の最北端。深く入り組んだ湖岸沿いに車を走らせると竹生島と葛篭尾崎の先端が見えてくる。さらに進と標高400mの山々に包まれるようにして菅浦の集落が現れる。
集落の入口(西側)には「四足門」と言われる茅葺きの門があり、村の出入りを監視する要害の門、今で言う関所の役目を果たしていた門だ。また別名を「四方門」とも呼ばれ近年までは東西南北(現存するのは東西の二箇所のみ)の集落入口に設置され集落内を明確にしていた。この四足門は菅浦に残された文書から中世後期からすでに存在していたことが確認されている。
西門をくぐると、淳仁天皇を祭神とする須賀神社がある。
この地域には淳仁天皇の伝説が残っており、菅浦の人々は淳仁天皇の氏子として暮らして来られた。世には、淳仁天皇は恵美押勝の乱で道鏡や孝謙上皇に敗れ、淡路の廃帝となり淡路(兵庫県)に遷じられて崩御されたと
伝えられている。そんな書記もある。
しかし、ここに伝わる伝説はこうだ…恵美押勝の乱で道鏡や孝謙上皇に敗れこの地に隠棲したと言う。都を追われ、びわ湖渡りこの地に流れ着いた。その際に葛篭(かご)に隠れて舟に乗り運れてきたそうだ。淡路というのは淡海の間違えであったと伝えられている。
また葛篭に隠れて…という所からなまり葛篭尾となり、葛篭尾崎と地名になっている。これに加え昭和46年に奧びわ湖パークウェイが開通するまで、交通手段は船が主で陸の孤島だった事も隠れ里と言われる由縁だろう。
集落は1時間足らずで1周できてしまう。前はびわ湖、後ろは山。田畑を耕す土地が少ないため、石垣を積んだ防波堤の上の小さなスペースに野菜や果樹を植えている。生きるための知恵だ。今も土地は個人の所有物ではなく、菅浦の財産だという意識が強い。09年現在76戸。この1000年の間、平均100戸前後を推移しており、これは昔から跡取り以外はよその地へ…土地を売買するのは集落内で、引っ越しは村の中で家を交換する家移りで、という決まり事を守ってきたからだといわれている。
「そなた(あなた)わら(私)」という公家言葉を話したりする。
これは先に記した伝説に信憑性を持たせる。さらに「六三郎」「清三郎」
と先祖の屋号で呼び合うなど変わった風習が残る。
なにもないがそこには人々が生きてきた証がある…
このページのトップへ↑
|
プライバシーポリシー
|
サイトマップ
|
リンクス
|
〒529-0726 滋賀県長浜市西浅井町菅浦580 TEL.0749-89-0350 FAX.0749-89-1363
Copyright (c) Tsuzuraoso all right reserved.